怪文

グループワークをやっていて斜に構えることは共通の話題についてより良いものにするための客観性を保つ水冷ファン的な役割をもつとは思っているんですが、その人のことを嫌いになってしまった面を差し引いてもあなたのその冷笑的な態度はただ現状を受け入れて胡坐をかいているだけじゃないですか?って聞きたくなる

 

似たようなことを思ったのがトリエンナーレの記事を漁っていたころに並べられていたツリーをチラチラぼんやり夏休みのうだつの上がらない枕の上でぼんやり思っていて、その時につぶやこうとした下書きは消したけど、議論になんねーなってめちゃくちゃ感じて、問題点はいろいろあったけれどこう思っているのだからと自分の意見に完璧性を感じてしまっているものが多すぎて夏の直射日光よりまぶしかった、それを丁寧に遮ろうとしてもインターネットの海に紛れて水鉄砲を撃ってくるみたいなゲリラに変貌していたし。この時の自由について、私はこう思っているひともいればそれとは逆に思う人もいるし、そうは単に思わないだけの人もいる。それぞれの自由を多数、または多数だと思い込んでいる自由のうちの一つで押しつぶしていいのか?というところで、それが結構凝縮されているのは同性婚なのかなぁと感じている

 

最近、同性婚に反対、賛成というよりかは結婚制度に関してもう否定的な逃げの姿勢を掲げるまでにはいかないにしても中腰で佇ませてもらっている。同性が婚姻をする自由という新しい人権、権利を見出す要因として、特定の自由・権利の人格的生存性と歴史的正当性、多数の国民に行使されうる普遍性を備えているか、公共的なものかとかいろいろ見るべきところはあるらしいんですけど、歴史的正当性と普遍性の浅さが反対理由に掲げられていて、じゃあ性的嗜好が同性だから結婚できないという法文がないから形式的差別はないといわれている(実質的な差別はある?)14条のほうからみて、異性婚と同様の法的利益を受けられない同性婚は差別といえないのかという実質的なところを覗いても、認めてはいないけれど同じような保護を行政から受けられるよみたいに流されていて、同等のものという観点がうまくはぐらかされてしまって、そこに大きく括って子孫、子どもの問題がかかわってくるのでこちらもごちゃごちゃっとし始めるのですが....

新しい自由な権利の一つとして同性婚を認容するのか、従来の民法上の婚姻の自由に同性による婚約の自由も盛り込むのか、的なところで悩んで結局結婚制度っているのか.....?みたいに思ってしまう、これは授業の議論から外れるので言えないですが婚姻制の底にあるであろう家父長制とかが最早時代にそぐわないのかなぁって思った。ロシアみたいに正教徒が多数を占めない国でよかった~、気軽にブラックジョークをインターネットにバラまけないとツイッタラーの知り合いが嘆いていました、それも表現の自由っぽいなぁと思った、

 

記憶に新しい広告の問題、炎上は最近の二次元ヒロインのポスターとか、ハーフの子を産みたいひとに とかだと思うんです、調べが浅くて申し訳ないですそれより十二ヵ国記の考察を読むほうが楽しくて....

そのときにすこし思ったのが、社会情勢とか権力関係、思想が人々に共通されていることを前提に、そういったバイアスの下で広告を分析していく気がする。批判される広告を半ば擁護したりヒートアップしている人に冷ややかな自己顕示欲の発露を求めている人は、その広告を通して自分自身の化石化した価値観や常識が垣間見えて気持ち悪いと思ったんだなと腑に落ちた。つまり、広告を広告であって現実とひとつ切り離して考えるから前提として広告と受け取ったうえで意図や商品のアピールポイントをその人自身のセンスで補充しているということなのかなと思う。

批判は最初にぼんやり伝えたようにお互いの理解を深めるための対話な気がするというか、最初はそういったものとして作られた語のような気がするから、最近の嫌悪感とはしっかりケリをつけたかった