砂糖菓子の弾丸で打ち抜いて

 

コレの話をします。

昨日の深夜、みんながこの話をしていて、帰路につく前の恋人がジャンプ+のアプリをダウンロードしていたのはコレかと思いつつ、なんだろうコレはと思って寝た。

 

出勤時の電車でADOYの新曲を聴きながらページをめくった。

読んだ。答え合わせをするかのようにキーワード検索に励む。

概ね変わらない答えだった。どんなメタファーがあってももうそんなに踊らなかった。

 

この手の居心地の悪さはインターネットに浸かるようになってから幾度となく味わってきたけどようやくいやだなと思ってくるところがわかってきた。

 

震災が起きて有無も言わず配給に並ぶ姿とか、戦後日本が西洋文化を一番うまく取り入れてアジアに回していったとか。

クソデカい、捥げないつかめない投げられない蹴飛ばせない感情と向き合ったとき、そんな反骨心めいた感情は湧いてこなくて、圧倒されて背を向けるか、取り入れようとして喘ぐか。

 

自分が打ちひしがれて悶々としている時間が楽しくて苦しくて愛しく思ってるから、横でよっこいせと立ち上がって突如聞きたくもないこの話の意味は、意義は、自分たちはこうやって動かなきゃいけないとかそういうのがちょっと待ってって全然言えてこなかったなということ。

それは自然主義と耽美主義の潮流だったり、現実主義とロマン主義の違いとかかもしれないけれど、衝撃を与えてくれるものに出会ったときは、その衝撃をいつまでも胸で抱き留めていたくて、

なのにすぐ近くでこれはこうなんだぜ~~!と騒いでるのが目について、そうだね、うん、おっしゃる通り、すごいねとため息をつくように言ってしまう

 

ノンフィクションとフィクションは鶏口問題でもなく、実体二元論でもなく、フィクションがないと生まれてこないから、どこまでも作者のエゴだと思う。

もちろんそのうえで砂金探しをしてメタファーを見つけ、声高にそれをつぶやくのはいいことなんだけど、食傷気味になってきていることも事実、

 

最近の炎上も怖くて、たたかれるほうもたたくほうもめちゃくちゃ怖い。何考えて謝ってるのかわからないし、そこでそんな怒るの?と気圧される

あとはボヤから大火災までの速さになるのが怖い。

 

地面で震えている卵にも見えるし大きい虫にも見える、もしかしたら機械かもしれない。それに座り込んで眺めているときに横から手でつかんでその震えを止めないでほしい、その振動が伝わってできたおぼろげな跡をそんなに引き延ばさないでほしい。

と思いながら家についたら死にかけのセミを踏み殺して....おれ自身がおれのいやなやつに....

 

そうやって生きていく、大層な願いも持たず、半径5mのことしか考えない。たまに20光年先に頑張って泳いで疲れて帰ってこよう。もわっとした腐葉土の中で寝よう。

だからオレはファイアパンチが一番好き

 

昔美術館に行って、うわっと思って離れられなかった作品を見ていた時に今まで見てきた中で一番あほっぽい顔してたと言われて恥ずかしかったけど、その気持ちを忘れずにいたい、そんな顔になれたことはこれから先そう多くないだろうし。

 

チェンソーマンもそうだったけど、葬式のあとの気持ちになるのが、死んだ人のことを思う感情というものを、本当に気持ちいいと思えるくらい、こちらを誘導してくるよね。

だからそこからが余計鮮やかに見えて惹かれていくんだろうなぁ。つらいけど幸せ