Eyes Locked, Hands Locked

掬いきれず指の隙間から、瞼の裏側から、唸る声の底から、記憶が文字通り消えていくことを実感している。

全然、忙しさにかまけて"いい”文章を浴びていなかったから貧相な私の頭や腕や心は、書きたい!という気持ちがあってもそれを最後まで書きあがることはおろか、書いてみようとすらせず、なんとなくいい気になっていただけでした。

どこか現実に苛立ったまま歯車となってすでにキイキイと音が鳴る私は、それが怒りなのか、自分への嘲笑なのかわからないまま、気分がよくなればなるほど口から嬉しいことと同じくらいもしくはそれより多く自分の日々の小さな怒りを話すようになりました。歯車になった瞬間、厭世観によって保たれていた自身のキレの良さというものはなくなり、皆は体よくみんな社会人になると面白くなくなるなwと言っていますが、ちょっとずつそういったものは蟲毒になり、時々思い出したかのように身体に嫌悪を抱かせるのかもしれません。この間も、首が長くなったねと旧知の友人に言われ、素直にキャッチボールができないせいでたまに思い出して筋トレに精が出てしまいます。筋トレはたばこをやめてから自分の体調を計るのに特にちょうど良いものであり、日常に一定のリズムが生まれ、最近は特にやっていてプラスに思えるようになってきました。

 

それでもこの数年で周りに人が増えるようになりました。そんな私すら喜んでくれる人がいる、というのは幸せであり恐ろしいことでもあり、徐々に体から毒気も抜けていき、まだまだすぐに集めてしまうけれど、有り体に言えばなんとかやっていますというような状態なのかもしれない。

5年前の私はまさか会社の人と大学の人を恋愛のレールの上で繋ぐ仲介者になっているとは思いもしないでしょう。そのレールの行く末は関与せず見守っていたのですが、さっき一つの終着点についたという電報がやってきて、善くあろうとすることより貪欲であることが勝ってしまい、その電報に返信すらしてないのに、ただ自分と殴りあうことにしてしまった。

これを書ききって床につき明朝「お疲れ様。ジョギングしたほうがいいよ。体の水分を蒸発させ、涙が出ないようにしよう」と電報に返そうかなと思う。

いつだって差し出した手のひらの裏側を穿ってしまい前を見ることもなくそのまま棒にぶつかるような私は、ここ数年、とにかく言葉を交わし、その中で褒め怒られ、謝り謝られることで関係性を保ち、孤独から逃れていたが、すべてをさらけ出しても面白いように波があり、特に何も気にせず生きていられる向こう数年を思うとこの日々の波に打たれていられることは本当によいことだなと時々思っている。ものすごくうまく生きているような、一見するときらびやかで自由に見えるあの人も、すごくコントロールされた意識的なものがたまに見えるようになってきた。話していて思考に口が追い付かずヒートアップするあの瞬間と前に座っていたあなたたちの目が一瞬輝く瞬間を大事に、何も取りこぼさないように、刹那の綱渡りを相手を信じて、信じつつもすべて体を預けることなく駆け渡りたい。驕り高ぶらないように、怠惰に沈まないように。

時折、特段意識もしていないが話にあがる愛について、その時々の勢い・センス・最近吸収した文章を組み合わせ言い放って満足しているものですが、今はどうしたって消えない断絶にもがくことが愛なんじゃないかと思っている。たぶん2か月くらい前は受け入れる、と言っていた気がする。私は社会に馴染もうと自分の話を特に赤裸々に語ることで相手に受け入れてもらうような癖がついてしまい、若干気持ちよさも感じるようになっていますが、共感してくれなくても周りに友やパートナーがいるということを実感できるようになってきた。でもそのうえで貪欲なのであなたのすべてを掴み抱いて眠りたいと思っている。

もう一つ殴りあうことを放置していた、R to Vについても

第一言語が同じでも3年生まれが違うだけで全く別の人種に感じるように、生まれも言語も別の人たちの本当の気持ちなんて正直全くわからないし、それでは悔しいから勉強はしているけれどその足取りも重く、全てをわかることは厳しい中でそれでも彼女らを好きでいたのは、根っこの音楽でしっかりと繋がっていたんだなと再度思った。あまりにほだらかで同行人はソウルで一回でおなかいっぱいかなと言っていたその観客の一体感(その中は音楽を大音量で浴びることが好きな人もいれば、同じ空間に確かに実在していることを認識しに行っている人もおり、記録に収めに行くことが好きな人もいますが)に酔いしれていたのも事実で、それでも日本で2回目に見たときに感じた、桃源郷を一時の幻で見させられているかのような、放課後部活をサボって昼寝していた時に聴こえてきたブラスバンドのような、どこか振り返ってしまうような1か月を総括するライブでした。(見返していて思い出したのですが、サボってという言葉の裏で朝からずっとおなかが痛くて授業中人目もはばからずトイレに何度も行ってさすがに今日の部活は休んだ方がいいと前に座っていたキャプテンに言われて本当は唸りながら机の下で本を読んでいたのが真相でした)

冒頭の切り口は完全にここから始まっているけど、感想を言おうとすればするほど語り切れない部分を見つけてぽつぽつと抜けていく気がして、それに耐えきれなくて全然しゃべれなくなってしまった。もっと落とし込みたいし、しゃべりたい。多分そうしているときが一番生に寄り添っているということだと思っているし。

(下書きより)

・信仰という言葉は嫌だけど、ZimzalabimやOh Boyを聴いていた時に感じるこの瞬間が永遠であれば、という感情はその端くれだなと思った。

・本当、楽すりゃ口から放つ言葉の解像度は下がり、顔もブスに仏頂面になっていくんだろうな。少なくとも彼女たちが見せてくれる景色に顔をそむけないくらいの生き方したくない?

・海外でライブを見た翌日は魂が抜けているので早く出国した方がよいという知見

・イェリの誕生日の手紙の「綺麗な愛がいつも私のそばにあったから17歳の友達が間違った道へ行くことなく寂しくないよう、この簡単じゃない芸能界生活の中で正しく成長できたんじゃないかと思います。私は今の私がかなり気に入っています。まだ足りない点も多いけど、私が私自身を、そして周りをよく気遣って愛してあげる暖かい大人になっていきたいです。まだ大人が何なのかはよくわかりませんが」という文章がとにかく胸を反芻してる。

 

あんな風に紙吹雪が眩しく見えるくらいのライブを、生を感じていきたいなと思う。

朝顔の観察日記なんか大人になってからやった方が楽しいに決まってるって