じゃあ

じゃあどうすればよかった?と悩むことが増えた。擦り切れるくらい読んだり見たり聞いたり触ったり感じたことはいつかは忘れる。消えるといっても仕方ない、覚えていなくなってしまうのだからいつか。だから振り返ってあの時は──とか、正しかったのとかを繰り返して生きていく、それもいつかはなくなってしまうのに。有難いことに前よりそういったものを探すときに不毛な時間を盗られなくなっている時代になったとは思う。今読んでいた世界の中よりは

そのおかげで知りたくなかったことを知るし見たくないものを見る。そうやって壊れたというと大げさになってしまうけれど踏み潰されることがこれからもずっと続いていくのかもしれない。でもいまがあるからこれからがあるし、じゃあその今にすべてを注いでいくほうが絶対にいい。死ぬということに偉く最近は引っ張られているのをわかった上で、やっぱり改めて思った。幸せでもなければ不幸せでもないしよかったなんて思うことはこの半年ほぼほぼ海岸の砂よりあっけなくて素っ気ないものしかなかった。これもあれも含めてすべてが一過性のものになってしまう。それはつまり生きて死ぬというところのなかに組み込まれてしまっているので。こうやって背筋に当てた竹の定規のように当てられて筋道立てて止まらない何かを一世代前の古いパソコンに押し込んでいるけれど、これは輪廻から外れて変わらないものになるのかなぁ。人が全部生み出したものは人が終わらせるしかないのでこれも結局は消えていくはな、あーあ

 

頭で考えてることと思っていることは一致することがなくて、その齟齬に抗うようにして物語にのめり込んでしまってしばらくは戻れなくなっていくのだけれどそこに変わらないものがきっとある気がして、そこを探り探りで書いていくのが楽しくてでもふっとその先を見るとどうしても暗くなってというのを最近は繰り返して。俯瞰するわけじゃないけど長い歴史のなかで星の数ほどそんなのは生まれては消えていってたまに遺されていくのだと気づいて、安心する。世界史は自由の意識の進歩であるってすこし好きな哲学者が確か、もう四年も前の話だからうろおぼえだけれど言っていて。当時世界史が日本史に比べてまったく好きじゃなかったのでああ、歴史って生きたことなんだよなぁって立ち止まらせてくれたことをここまで来て思い出した。反芻っていいよねぇうまく美化されて戻ってくるから

 

なにが善だかしらないけど明確にここからは悪だという境界だけは徐々に生きていくなかで見つかってしまったので、先に向かってひきずってきたものとまた向かっていこうかな、ピースでもしながらさ。じゃあ