回想

ワイヤレスイヤホンに期待していたことは、耳から落ちないくらいの密閉性と軽さと接続の良さで。今までずっと、というかそこしか見ていなかった音質は多少後回しでもいいと思って画面をタップしていた自分に唖然とした。すごく今のイヤホンには思い入れがあって、klipschのx10をずっと使っていたら遂に聴こえなくなってしまってゼンハイザーshureで悩んで最終的に飛び込んできたfinalシリーズに決めて、めっちゃ試聴して。視聴するときの基準がまったく分からなくて曲を頼りに自分の中で心地いいと思われるところを実験していった。基準にする際の曲ももう自分の中で固まってしまっている。基準のための基準を手探りで楽しんでいたころは、小学生のときにやった重さのわからないものを量るために9gと4gのおもりだけで楽しんだ思い出も一緒に残っている。なのにたった3年で、世界の全てだった音質が霞むものとなってしまったことを事後的に気づいたことがなんとも言えなかった

 

バスケの"うまい"もなんだったんだろう。初めて1、2年のころは決定力だと思って手本にする選手をNBAから近所のチョーうまい年下の子までよく見ていたりして、そのうちどのポジションもなんとなくできるような身長になってきたころ、そのチームで輝いているわけではないが原動力である人、リズムを生み出している人がわかるようになってきてその人のチームの心臓になることは無理だと感覚で分かっていたから、瞬間的に沸騰させられるようなところと、自分の特性と、その当時チームに足りなかったところとかを考えて行ったりしていた。違うチームだったらもしかしたら全然違うポジションだったと思う。

 

瀬戸芸。いろんなことが重なって予定がうまくいかず、特に小豆島は東部23区くらいの大きさもあって(ほかの島は4~5時間で回れるので比較的"大きい"島です)滞在時間3時間もなかったのは猛暑もあってちょっと泣きそうだったけれど、その中で迷路のまちという展示があって 見た目は古民家なのに入ったらイエティの(住んでいると言われるような)洞窟みたいになっていて非常に楽しかったんですけど、この冬にパラサイト 半地下の家族 という寄生的家族のサイコホラーと一種のドキュメンタリ性の溢れた映画となぞっているところがすごく似ているような気がして。

この展示に限っていうと、ときおり元の家の中身や住んでた痕跡、欠片みたいなものが落ちていて展示の一部として。物語性の永遠と人工物の虚無を同時に感じて、そのキモチワルサに私はすごくおもしろかったです。一方映画で言うと、どんなにお金持ちになりすまそうともホンモノや周りと過ごしていくなかで自然と元の皮が剥がれてきてしまう怖さと、このまま寄生して乗っ取れるんじゃないかという栄光へのボロい橋が試聴している側からは両方垣間見えてすごく見悶えする2019年で見てよかった映画です。

 

生きていると原体験としてたくさん不可解なところは残っていて、ずっとショートが好きと言い張っていたのに今では、いつからかロングが好きとそういう場合に言うひとになっていたり。この間スウェーデンに泊まった時、ホステルの同じ二段ベッドの上の階の住人が下りてきて「前のスペース使っていい?」と聞かれて全く意味が分からなかったけれど大丈夫と返して。そうしたら彼は持っていたTシャツを縦一文字に一回折りたたんで床に敷き、座して頭をそのTシャツの前の床に何回かこすりつけるように背中を曲げていた。その一連の動作、が終わったあと次の日早く起きなければならず、アラームでもし起こしてしまったらごめんと伝えると

「何時に起きるんだい」-AM3:30とかかな

「全然大丈夫、なんでそんな早く起きるの?」-フライトが朝早くて

「私は一回ゴッドにその時間に起こしてもらったことがあるんだ、だからその時間は好きだから大丈夫、グッドラック」

的なことを交わして、すごくカルチャーショックを感じる会話だった。彼の"それ"が主体的か半強制的になのか、若しくはそれらを認識する前に始まったことかもしれないのに、結果として今では生活の一部として組まれその上に安堵しているように見えた一方で、昔寝ても覚めても頭から離れなかった好きだった人に嘲笑される夢で次の日高熱が出た昔の自分を思い出したりして、認識って脆すぎじゃん感情と組み合わさると余計に....とか思ったりしていて

 

そんなものを一気に千葉市美術館で思い出した気分だった。初回に行った際、朝大学に行き友達と昼から串カツを食べまあまあなちどった足で鑑賞し、二回目は彼女と行った。一回目はサイゼリヤのメニューの中に自分たちがRPGの主人公として迷い込んだ気分だった(そのあとしっかり友達たちとサイゼリヤに行った)が、その迷いは徐々に不安に変わって。わからないことに遭遇すると平安時代の人とかはアニミズム的なものに逃げたときと人間の本質はあまり進化していないっぽく、やたら頼りなさに似た恐怖が出てくる。どこからが展示で、どこからが元々の館内の設備、装飾かすらぼやけていく。

展示は7、8階にまたがっているがどちらも展示を入れ替えているときの館内のような"展示"になっていて、そこに作業者としての"展示"スタッフが出てくる。彼らの動きは7、8階で異なっていて、もし一体型の演劇的な展示でこのスタッフたちの行動パターンが会期を追うにつれて変化していくとしたらとても面白いなと思った。つまり片付けているのか今から荷解きをして展示物を整然とさせていく状況なのか"わからない"が、それが最終日に完成に向かうようなカタチだったら面白いなって。一回入場すると期間内の再入場はいくらでも可能ですと最初に言われたのもこれで腑に落ちるなと

 

サイゼリヤデカンタを振り回しながらこんなことを話していたと思う。あとゲニウスロキって友達が又聞きした単語を調べて話してくれた。二回目はそういった前提も込みで彼女がどう考えるか見ていたかったのだが、ボソッと「見られている」と言っていてあの時が心底驚いたというより怖かった。

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このポスターの中のみんなが覗いているのは7、8階の私たちではないのかということらしい。つまり私たちが入場することによってポスターの最後のピースとなるわけで、そんなのハリーポッターの炎のゴブレットでハリーが優勝することでヴォルデモートが復活するあの大きな大きな罠じゃんって思った。それについての返答はハリーポッター 一回も見たことも読んだこともない、だったのでヘッ(好きだわ)と春日みたいな返し方になったのは反省している。またこわかったですね。

7、8階ともに青と茶色の大きな丸い形の展示物があったじゃないですか。あれのおかげで階がわからなくなるということが無かったんだけど(ここら辺割とあいまいでもしかしたら両方同じ茶色の目だったかもしれない、ので単純に階を間違えなかっただけかもしれない)、見られているとするとこれは目なのかっていうメタ的な視点を持てたことが二回目の展示ではこのチーム 目[mé]からの啓示たりえたことかもしれない。でも今調べたらこれは彼らが2008年に作った「アクリルガス」という作品みたいで ウーーン.....

 

大量の時計の長針と短針 一緒に行った友達たちは、アリの巣に水とか入れたときみたい、クモがいっぱいいるみたい。彼女はパラレルワールドの表面化(違う時間を示すことで同じ中身の違う階にいるのに同じ入館客はいない”私たちのせいで”カンペキになれない分相対性が見えてくる などと言っていて適当にまとめただけ)などとみんな思い思いに言っていた。オレはブーーン.......というドグラマグラのハエの描写音を1人で思い出していた

 

実は話すの忘れてましたが、瀬戸芸のさっき行った迷路のまちはこのチーム 目[mé]の作品です

 

そんなところで出口に向かうのだが、入り口ではなく出口のときにチーム 目[mé]のごあいさつを見れてよかったなと思った。チバニアンから着想を得たっていうところが本当に脱帽です。チバニアンというのはある年代の千葉の地層は地磁気が逆転しているそうでその原因となる地層とかも仮設や研究がされているのですが「本当はどうなのかまだはっきりしたことはわからない」という文で締めくくられた研究結果だったらしく、これに着想を得たそう。この話たまたま学校の先生が昔話してくれた記憶があるのですが、着地が完璧なお笑い芸人のフリートークか?と思うだけだった自分が...狭い世界にいるなあとすごく思えた。

そのごあいさつにはそのよくわからないものをよくわからないまま突き放してみせたい という展示趣旨が書いてあって唸ることで精一杯でした、野生のイノシシかオレは。

 

今年チーム 目[mé]に出会って森美術館を含めて三回見ることができて本当に楽しかった、来年の公募で選ばれた誰かの顔が満月の様に夜空に浮かぶプロジェクト、正直オリンピックの3倍楽しみだ。では現実世界に戻らせていただきます

 

この文を最初に展示をみたときに行った友達に見せて「オレ何が言いたいんだろう」とひどく身勝手な質問にもならないぼやきをしたら、一人は「展示の子とでしょ」ともう一人は「個々の話のつながっているかつながらないかくらいの瀬戸際の部分見せたかったんでしょ」と言われてなんかうれしかったな。たくさん思ってくれたことも含めて文殊の知恵だった。

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