おめでとういろんなことを思い出してツンとなるなぁ

和辻哲郎が好きなので、同情という念はとかく属する間柄のなかで異様にも強固にもなると思っていて、非業の死の中でさえも価値を持って順位付けをしていく私はどこに自己があるのだろうとこうしたときにしばし考え込むようになった。昔クラスメイトが夏休みに交通事故で亡くなったと始業式で終わってしらけ切った教室でオレはふーーーーん、早く家帰ってアイス食べたいなと思っていたことがすごく脳裏に残っていて、マリアビートルのあいつみたいにどこまでも周りを見下しているというかないものとして扱ってしまっているんじゃないかなという傲慢に溢れた自分が怖かった

個人と集団でも死の影響、価値は一瞬で決まり流れていく。

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好きなフリースタイルを見てくれ、

告別式、葬式、お通夜の時どれだけの人が涙を流してくれる それが人の価値(3:30~)

権利と同じで何を思おうが思うまいが解も正しさもない、ひっくり返せばすべてがそう、な世界でどう思っていけばいいのか、ほらもう正しさを求めてる。

死は救済とまでは言いたくないし自分の掌がこんなに小さいこと社会というものの所在なさげな大きさをとかく思い出される

 

 

友達の親友同然の子に恋人ができて、友達に、もう会えない、会ってたら恋人のことちゃんと好きになれないと寂しそうに言っていた

年々情が出てくるか、愛が見えてくるかでオレは呻くようになっていて、そこが切り離せなくても勿論いいんだけど、その子のように切り離せなくてあまり良い気持ちにならなくなることは憐憫というか冒涜というか、わがままなのか

結婚はこれ以上愛のことで悩みたくないからなのに人生は続くし愛で悩むらしい、ということを聞いて、最高の離婚の愛情と生活はいつもぶつかって、なんというか私が生きる上で抱えるとても厄介な病 ということも思い出して

今目前にはなぜか愛か?死か?と迫ってきてる(死なないよ)

わからなくなってきてる、ここから先山田君にやっぱり貴方だったわ......というあいこに私はなるのだろうか?切り離せなかったら切り離せないで放っておくが、なるべく切り離しておきたいと思うのが微かにある 

 

さまざまな色彩を愛でるようになって、さまざまな刺激に反応するようになっていくというのに、need everybodyというかかまってというか寂寞さというか、すべてなくすことで満たせるんじゃないかというからっぽさが目立っていく。

殺伐としていっているので、わかんなくていいんだよ、わかってほしいけど的な感じですとにかく、そこも生きていく上でオレはアリだと受け取っている

 

 

 

ムカつく話しますね、恋人が運転しているとき足触ってくるのいいって言ってた人の顔をみてめっちゃイラついてめっちゃドキドキしちゃった

 

最近好きな言葉は、テントウムシより可愛いし、私はテントウムシが嫌い です。

 

 

 

 

今日のタイトルはお葬式でポツンと歌うのが一番自分のなかでしっくりくる